騎馬槍試合にて 3

現代フランスの中世史家ル・ロワ・ラデュリ。


彼は、『王政国家、1460年~1610年』の中でこう書いています。


《1559年6月30日、時のフランス王アンリ2世は、騎馬槍試合の最中、左目に槍片が刺さって瀕死の重傷を負った。


7月10日、王はついに帰らぬ人となる。


前代未聞のこの事故は、のちに重大な結果を招くことになった。


こうした事故がなかったなら、治世が平常に推移して、おそらくは市民戦争〔1562年から98年まで続いた、新教徒弾圧のいわゆるユグノー戦争のこと〕も起こらぬまま・・・


異端に対する苛酷な弾圧が続いたはずである》。


・・・この事件によって、騎馬槍試合は終焉のやむなきに至っています。


騎馬槍試合にて 2

脆くなった槍は衝撃で折れ、破片がアンリ2世が被った兜の眉庇を貫きました。


・・・そのため、王の額にぱっくりと穴があいてしまいました。


王国中の医師も外科医も、もはやそれをどうすることもできませんでした。


彼らにできたのは、王の額や目から5つの木片を抜き取ることだけでした。


そこで罪人6名を処刑し、アンブロワズ・パレ〔アンリ2世以下4代のフランス王に仕えた外科医。動脈結紮法の創始者として知られる〕が、彼らの頭に王が受けたのと同じ木片を打ち込むという実験を行ないました。


しかし、こうした全ての努力にもかかわらず、投薬も外傷治療の試みも一切空しく、王は7月10日に息を引き取りました。


・・・やがて王の死は、重大な結果を生むようになります。


アンリ・オゼは、1559年、モンゴメリーが突き出した槍がフランスの顔を変えたと記しています。


占いを上手く取り入れるが吉!

結婚できないことが不幸であるなどとは、運命学にも占星術にもありません。

「結婚は幸せ。離婚は不幸」などという図式が成り立たないことは、あなたの周辺を見渡せば十分でしょう。

占いを絶対視しているような占い師は現実を見ないで、自分の主観や経験だけで物をいっているのです。

運命の星を当てはめる代わりに、占い師の主観を相手に当てはめているのです。

半世紀前ならいざしらず、いまさら、結婚が女の幸せであるなどという古典を持ち出しても仕方ありません。

現実をみれば、結婚しても不幸な例はいくらでもあるし、本人が結婚を望んでいたとしても、望みがかなうことが本人の幸せにつながるかどうかは天のみぞ知るです。

どれが一番幸せかは、運命の星や他人が判断するべきことではありません。

電話での占いはココからどうぞ。

深海底の第三の生命圏 4

深海底のマンガン団塊が、マンガン、ニッケル、コバルトなどが主体になっているのに比較して、まったくこれと対照的な資源であるというのです。


こうした熱水の湧き出している場所は、深海底のさけ目・・・


つまりプレートの湧き口、すべりこみ口なら必ず存在していることが考えられ、すでにイギリスの調査船が紅海の海底でそれらしい有望な鉱床を発見しているというし、なんと耳よりなことに、日本の近海にもたくさん見つかる筈、というのです。


日本列島の太平洋岸に沿って太平洋プレートのもぐり込み口となっている日本海溝が南北につらなっており、特に伊豆七島から小笠原、マリアナ諸島とつづいている巨大な海溝の縁は、活発な火山活動をしている部分です。


このあたりですでに日本の調査によって、熱水でつくられた鉱物や、メタンガスの濃度が異常に高い部分を見つけています。


・・・ここへ潜れば、絶対に大鉱脈が見つかるだろうといわれています。


日本としては大変心強いのですが、それには2000メートルが限界の「しんかい」では無理、アメリカのアルビン号並の探査船がどうしても必要なのです。


・・・なんとか頑張ってほしいと思うのです。

騎馬槍試合にて

アンリ2世はまずエマニュエル=フィリベールと闘い、次いでギーズ公を相手にしました。


しかし、自分の技に不満だった王は、スコットランド衛兵隊の百射兵隊長ガブリエル・ド・モンゴメリーとの対戦を望みました。


試合の結果は、勝ち負けのはっきりしない中途半端なものでした。


そこで王は、もう一度手合方せを要求しました。


・・・これは慣例に反するものでした。


この時、王妃カトリーヌ・ド・メディシスを不安がらせていた嫌な前兆が現実となります。


はたしてノストラダムス〔当時、王子シャルル9世の侍医をつとめていた〕は、この悲劇を予知していたのか、いなかったのか・・・。


《黄色い老いた獅子が、奇妙な決闘によって敵を戦場に倒すだろう。


獅子の眼前にある黄金の橿の中にはニ通りの階級があり、やがて一方は酷い死を迎えることになる》


・・・モンゴメリーは槍を代えるのを忘れました。


これもまた、慣例に反していました。

深海底の第三の生命圏 3

どれもこれも、地球上ではまったくはじめてお目にかかる生物ばかりだったというのです。


科学者たちが注目したのは、生物もさることながら、熱水から生じた鉄、銅、鉛、亜鉛、銀などの鉱物を含んだ広大な鉱脈でした。


・・・つまり大陸の地下に発見される金属鉱脈が、そこでは海底の中にむき出しになって、現在できつつある進行形の状態になっているというのです。


近ごろ問題になっている海底資源の中で、太平洋の海底にマンガン団塊と呼ばれる金属、鉱物のかたまりがころげているのを採取して、鉱物資源にしようともくろんでいるのですが・・・


アメリカではそんなものよりも、熱水の湧いているところに生じた鉱脈を探す方が、はるかに有望だというのです。


アルビン号が最初に調査したガラパゴス諸島沖の例では、深さ2600メートルの海底に、高さ30メートル余りの煙突のような形の噴出口があって、その周囲に金属硫化物のつみ重なりが幅200メートル、長さ1キロにわたってつづいているのが認められています。


ハッキリ確認しただけでも2000万から4000万トンの豊富な鉱石が存在しているといいます。


・・・とにかく海底の表面から見ただけでそのくらいわかるのですから、もっと巨大な鉱脈、鉱床がかくされていることは間違いないといいます。


採集した資料を分析してみると、鉄43パーセント、銅11パーセント、亜鉛0・8パーセント、モリブデン0・03パーセント、他に微量の銀も含まれていることがわかりました。


深海底の第三の生命圏 2

ところが、アルビン号が潜ったところは、大ちがい。


・・・まるで深海底のオアシスのような場所でした。


そこはいってみれば、太平洋海底のさけ目のような所で、プレート・テクトニクス理論によれば、海底からプレートが湧き上ってくるような部分・・・


さけ目の各処から熱水と呼ばれる高い温度の鉱液が・まるで噴水のように噴出しています。


熱水の温度は350度Cにも達していて、地上へ出てくれば、ガス状になる筈のものが、深海の高い水圧(300気圧)で押えられて、液状のまま沸騰し、いろいろな鉱物や元素を溶かしこんだ状態で海水に交じり合うのです。


熱水は海水に冷やされるため、さまざまな鉱物が出ています。


本来ならば3度Cから4度Cという冷たい海水が、そこではかなり暖められ、海水も熱水中の元素と反応して、栄義豊富な状態となっています。


こうして3000メートルの深海底に、陸上、水中と2つの生物圏とはまったく異った、第三の生物のライフ・サイクルが構成されているのです。


アルビン号が海底で撮影した写真には、2・5メートルの長大なパイプの中に住んでいる正体不明の紐のような生物(おそらく巨大な紐虫かミミズに近いもの)、殻の長さが20センチもあるニ枚貝、毛虫のような環形動物、カニ、クラゲ、インギンチャク・・・


そしてソコダラに似た魚などが、熱水噴出口の周囲にうじゃうじゃ棲息しているのが確認されました。


深海底の第三の生命圏

深海の底に発見された生物圏は、別な面でも非常に注目されています。


・・・それは、日本近海にもそのようなものが見つかる筈だということ。


そしておそらく、豊富な鉱物資源を提供してくれるだろうといいます。


もっとも3000から4000メートルの深海の話で、日本の深海探査船「しんかい」の潜水限度が2000メートルなのですから、もう少し頑.張らなくてはダメなのです。


アメリカ海軍と全米科学財団が協力して製作した深海潜水艇アルビン号は、まったくよくできた探査船です。


乗員は2人、CCDカメラと称する特殊カメラにテレビカメラ、マジックハンド、海水採取器、海泥採取器、といった各種の測定器や装置を積載したいたれりつくせりのもの・・・。


6000メートルまで潜水可能で、これが1979年1月、ガラパゴス島の近くにある海溝にもぐり、つづいてカプォルニア沖の3000メートル近い海底の調査を行いました。


今までの深海調査の記録を見ると、1000メートルよりも深い海というのは、ヘナヘナの甲殻類やインギンチャク、海綿の類がごくまばらに棲息している程度で、海藻類はほとんどなく・・・


まったくの例外として、アメリカ海軍のバチスカーフ、トリエステ号がマリアナ海溝で15000メートルの大潜水を行った時、奇妙なウナギのできそこないのような魚がいたのを認めたぐらい・・・


とにかく、そうした海底では、マリン・スノウと呼ばれる軟泥が堆積して、砂漠のような光景が見えるだけでした。


国際農産物市場と日本農業の国境調整 3

このように食料農産物が国内消費優先体制をとっていることは、貿易量の変動がそれだけ大きいことをも意味しています。


第二に、食料農産物貿易の基本的方向がいわゆる熱帯産品を別とすれば一先進国から低開発国へ、北から南へと動いていることです。


第二次大戦後におけるこうした農産物貿易の流れは、前世紀とは完全に逆です。


19世紀中葉の自由主義段階ではイギリスを軸とする国際的農工分業体制が構築され、工業製品は中心国であるイギリスから周辺国へ、農産物は周辺国から中心国であるイギリスへという世界貿易の流れが定着していたのに対して、戦後はそれが逆転してしまったのです。


こうした農産物貿易の構造変化を規定したのは次のような各国の国内事情です。


まず、先進国では農業保護の強化と農業生産性の継続的上昇により、供給が消費を上回る傾向が強まっています。


他方、低開発国では人口の増加・国民の消費レベルの上昇に生産の増加が追いつかず、慢性的な食料不足の状況におかれています。


国別・作物別の差をふくみながらも、全体としてみた場合、北はますます強く輸出に、南は逆にますます強く輸入に傾斜する方向に、現代の農産物貿易は動いているのです。

国際農産物市場と日本農業の国境調整 2

後者が経済の発展に応じて各国の産業構成、主要輸出国、貿易品目構成をたえずダイナミックに変化させてきているのに対して、農産物貿易の場合にはそうした変化は微弱であり、輸出国・輸出品目とも比較的安定しています。


そうしたなかで、一般に工業製品と比べた場合の農産物貿易の特徴として指摘されるのは次の諸点です。


第一に、世界の農業総生産量に占める農産物貿易の比率が、概していちじるしく低いことです。


主要農産物について生産量に占める輸出量の割合をみたものがあります。


品目によっても異なりますが、これを見ると、比較的輸出比率の高い大豆・小麦で2~3割、大麦・とうもろこし・オレンジなどでは1割強、牛肉・豚肉・米にいたっては僅か数%でしかないことがわかります。


そのことは、逆にいえばこれら食料農産物の圧倒的部分は国内自給にすぎないことを物語っています。


食料農産物はまず国内消費を優先させ、それをみたしたうえで残りの部分が輸出にあてられるという構造となっているのです。


それは食料が生活必需品である以上、当然のことです。